メッセンジャー

「……でね、その後通りかかった海岸に海鳥が沢山いて、僕らの乗った車の気配でいっせいに羽ばたいたんだ。映画で同じような場面をみたことがあるような気がするんだけど、波打ちぎわの視界いっぱい、羽毛をまき散らしたように白い鳥で埋めつくされて……」

 いったん言葉を切って、瞬は溜め息をついた。
 そのときの情景を思い浮かべているのだろう、うっとりと目を閉じる。
 頬杖をつきながら瞬の方へと上体を向け、横向きに寝そべっていた一輝は、頬の丸みにかかった髪をかきあげた。こめかみの生え際にはうっすらと汗が滲み、鼓動の落ちついた白い身体にまだ情事の名残をとどめている。
「なんて言ったら伝わるだろう。うまい言葉が見つからないや。」
 しばらく考えた末、瞬は琥珀の瞳をきらきらと輝かせながらも、黙って次の言葉を待つ兄に向かって、はにかむように笑いかけた。
 その後、瞬が何を言い出すのか、一輝には分かっていた。

――だからにいさんも、一緒に見に行こう。

 瞬は印象深い物や場所を見つけると、かならず一輝にもそれを知らせて、自分の感じた事を共有したがった。
 たとえばそれが、城戸邸近くのデパ地下でみつけた、行列のできる洋菓子店のシュークリームあたりならまだ可愛いほうで、沙織のお供で滞在したイタリアで、あるオープンサンドに感動したときなど、兄を連れてはるばるとそれを食しにいったほどだった。
「たまたまホテルの近くにあった、あの辺りではごくありふれたカフェでのブランチだったのですけれど」と、ミラノの高級食材店が経営するレストランのディナーを決まって予約していた沙織は、すこしばかりの不平を込めて、一輝にこぼしたものだった。

 そして、今回もやはり瞬は「日の出前の海辺のドライブ」を兄に提案し、一輝はそれに同意した。
 幾度となく兄弟のあいだで交わされた約束のあと、瞬は、車から飛び出した星矢が海鳥の群れの中ではしゃいだ挙げ句、波に足をさらわれた話を、思い出し笑いと共に語った。

 瞬のそういったところは、幼い頃からあった。
 だが、いくら共有したいと望んでも、血の繋がった兄弟とはいえ別の人間である以上、叶わぬこともあった。

 一輝の覚えているなかで、もっとも深い所にあるその記憶は、瞬が見たという、ある夢の話だった。
 グラード財団に引き取られて、直ぐの頃だったと思う。やはりキラキラした瞳で、瞬は起き抜けにこう語ったのだ。

「まっくらなところにいてね、でも白い光が見えて、そこから出たら、きれいなお花畑がずうっとあって……女の人が、やさしく笑っていたの。いいにおいの、お花をくれたんだよ。そのあとも、たくさんきれいな所が見えて……あのね、青いお空とか、」

 瞬はやはり、兄にその夢を同じように体験させたかったのだが、伝えようとする側から途端に色あせてゆく言葉の貧弱さに失望したのか、終いには悲しそうに口を閉じた。
「……おにいちゃんにも、見てもらいたかった。」
 そう一言つぶやいたきり。
 一輝は黙って幼い言葉を聞いていたのだが、そのうちふと母との記憶が蘇ってきて、肩を落とした小さな弟を、思わずそっと抱きよせた。衝動的に、母の温もりを、瞬と分かち合いたいと思ったからかもしれない。
「いま、瞬はとても嬉しそうな顔をしてたよ。瞬のその顔が見れて俺もすごく嬉しいからいいんだ。」
 一輝は綿毛のようにふわふわとした髪を撫でながら、そう言って弟を宥めた。

 母に関わる唯一の思い出の品である、ペンダントを瞬に渡したのは、その何日か後だったように思う。

「これは、母さんの形見のペンダントだよ。」
「……カタミ?」
「そうだよ。これを付けていれば、いつでも母さんと一緒なんだ。」
 "永遠に、あなたのもの" そう刻まれた言葉の音は読み取ることが出来なかったが、教会の神父様に、それが指すことの意味だけは、教えてもらったことがあった。

 にわかに頭の上から渡されたそのペンダントを、両手で持て余すようにして受け止めた瞬は、すかさず顔をあげて、一輝に問いかけた。
「おにいちゃんの分は?」
 一輝は身をかがめて弟に微笑みかけた。
「俺はいいんだよ、瞬。」

 瞬には母の記憶がなかった。
 弟が産まれるまでのあいだ、母と二人で暮らしていた一輝だけがそれを、大切な宝箱から取り出すことができる。
 その事実が時折自分の胸を疼かせるのを、弟が知る事はないだろう。
 一輝には判っていた。これは分かち合えない痛みだ。
 そして、こんな自分はきっと誰よりも弱い。
 だから一輝は、常に自分に言い聞かせてきたのだ。強く、この幼い弟を護れるくらいに、強くあらねばと。
「再会した頃には、きっと丁度良くなってるぞ。」
 小さな身体には少しアンバランスな重さのペンダントトップを、一輝は弟のシャツの襟もとに仕舞いながらそう言いきかせた。

「……でもぼく……、」
 瞬はくぐもった声で何かを言いかけた。

―― 一昨日、聞いた。
 聖闘士というものになるために、自分たちは別れ別れにされるらしいという事を。
 その目的を果たさない限り、生きて戻ってはこれないということも。
 瞬はもじもじと身体を揺すりながら、シャツの上からペンダントに触れた。だが、一輝の表情がわずかに険しくなるのを見て、瞬はその後の言葉をのみこんだ。


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